メシアニックジュー

 メシアニックジューとは、ユダヤ人でイエスをメシア(救い主)と信じている人達のことです。「じゃあ、ユダヤ人クリスチャンのことじゃないか」と、私たち異邦人クリスチャンは考えがちですが、実はそう簡単な話ではありません。メシアニックジューの人達は自分達のことを「クリスチャン」とは言わないのです。また、彼らは自分達の信仰思想を「キリスト教」とは呼ばないで、「メシアニックジュダイズム」と呼んでいます。なぜそうなのかということを、以下で簡単に解説します。

異邦人クリスチャンから迫害を受けたユダヤ人

 ユダヤ人は、2000年の教会史の中で異邦人クリスチャンに迫害され続けた歴史を持っています。彼らは、異邦人クリスチャンに剣を突きつけられてキリスト教への強制的改宗を迫られてきました。11世紀から始まった十字軍では、大量のユダヤ人が異邦人クリスチャンに虐殺されるという悲劇が起こりました。その殺し方は、ユダヤ人をシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)に集めて焼き殺すという酷い方法です。 多くの人が持っている十字軍の認識は、「クリスチャンが、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するための戦い」というものです。しかし、その戦争の中ではユダヤ人虐殺も同時に起きていたのが史実です。この悲劇の根は、異邦人教会の中に反ユダヤ主義があったことによります。「ユダヤ人は、メシアであるイエスを殺した悪い奴ら」という認識でユダヤ人全体を捉えていたのが、当時の異邦人クリスチャンの認識です。

 

 このような歴史背景から、異邦人クリスチャンとメシアニックジューの間には大きな壁ができてしまいます。新約聖書エフェソ2章14節にあるのは、イエスの十字架によってユダヤ人と異邦人の間にあった「壁(モーセ律法)」はすでに取り壊されたということです。しかし、異邦人教会は別の意味での「新たな壁」を作ってしまったのです。

 同じメシアを信じていても、 ユダヤ人達はクリスチャン(特に伝統的な)という人達には抵抗感があり、拒絶反応を示します。それで、自分たちのことは異邦人クリスチャンが使っている信者の呼び名「クリスチャン」は使わないで、メシアニックジューと呼んでいるのです。”クリスチャン” のことは嫌いなのです。ただし、すべてのクリスチャンを拒否しているわけではなく、反ユダヤ主義的なクリスチャンを拒否しているのであり、ユダヤ人に友好的なクリスチャンがいることを彼らは認識しています。

 補足ですが、メシアニックジューは自分達の集まりのことはコングリゲーションと呼びます。異邦人クリスチャンが使う、チャーチ(教会)という呼び名は使いません。また、信者のことはビリーバーと呼びます。ですから、異邦人クリスチャンのことは、異邦人ビリーバーと呼びます。

 こういったユダヤ人の拒絶反応はみな、彼らが異邦人クリスチャンから受けた迫害の歴史から出ているものです。それにも増して付け加えるべきことは、何よりもイエシュア(メシアニックジューは、イエスをそう呼びます)は、ユダヤ的文脈の中から出てきたメシアであり、異邦人クリスチャンの側の様々な文化に、彼らがおもねる必要はないわけです。

イエスはユダヤ教の文脈から出てきたメシア

 メシアニックジューは、自分たちの信仰思想を「クリスチャニティ=キリスト教」とは呼ばないで、「メシアニックジュダイズム」と呼んでいます。 ジュダイズムというのは、メシア イエスの登場はユダヤ的文脈の中から出て来ているということです。それはその通りで、キリスト教とは、そもそもユダヤ教の延長線上にあるものです。旧約聖書と新約聖書は分けて考えるべきではなく、繋がった一冊の本であり、それらを繋いでいるのは神様がイスラエルに与えられた契約です。私達が忘れてはならないのは、異邦人は神様がイスラエルに与えられた祝福の契約の一部に与っているということです。

交わりの回復、そして完成へ

 使徒言行録にある初代教会はユダヤ人から始まりました。最初の異邦人キリスト者はみな、ユダヤ人でイエスを信じたメシアニックジューに、ユダヤ的文脈から聖書を教えてもらったのです。それが教会のスタートです。使徒言行録15章のエルサレム会議では、「異邦人クリスチャンにも割礼を受けさせ、モーセ律法を守らせるべきか?」というテーマでユダヤ人キリスト者による話し合いが持たれました。つまり、「異邦人はユダヤ人キリスト者のようにならなければいけないかどうか」について話し合われたわけです。結論は、異邦人はそうする必要はないということです。

 そのように、初めはユダヤ人が教会の方向性を決め、異邦人はユダヤ人から聖書の世界観を教えてもらっていました。しかし、その後次第に異邦人キリスト者の数が増えると、彼らはユダヤ人キリスト者を圧倒して行きます。すると今度は「ユダヤ人はユダヤ人を止めてクリスチャンにならないといけない」という話になって行き、異邦人が教会の方向性を決めるようになります。その辺りから、残念なことに聖書解釈はユダヤ人信者の存在意義(レムナントの存在意義)や、ユダヤ性を無視した方向へと進んでしまいます。・・・注意して頂きたいことは、こういう話は「ユダヤ人が教会のリーダーであるべきだ」ということではありません。そうではなく、神様による人類救済のご計画はイスラエルを通して成就されるということが聖書に預言されているのですから、それを私達の方で勝手に無視してはいけないということです。

 しかし、現在、今までの異邦人教会の態度を悔改めるクリスチャンが世界中で起こされています。そして、聖書をユダヤ的視点から解釈し、ユダヤ人の救いについても「ユダヤ人はユダヤ人のままでイエスを信じて救われる」ということになってきています。その結果、メシアニックジューの側との交わりも一部回復されてきています。この状況は、元々あった初代教会のユダヤ人と異邦人の信者の交わりの姿が、再び回復されつつあるということです。それが今という時代に起きていることです。そして、その教会の姿こそが本来の教会の姿であり、この両者は将来の千年王国において、キリストを頭とした「一人の新しい人」となって完成されるのです。ですから、今起きているユダヤ人と異邦人の信者の交わりの回復は、将来起こることの「前味わい」だと言えるのです。

実に、キリストはわたしたちの平和であります。*二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。エフェソ2:14

 

*二つのもの=ユダヤ人と異邦人の信者