私たちの希望

キリストの再臨

 イエス キリストを信じる者にとっての最大の希望とは、キリストの再臨です。今からおよそ2000年前に、イエスはイスラエルの地ベツレヘムにお生まれになられました。そして、30歳からご自分をメシア(救い主)として現す公生涯を始められます。それを、メシアの初臨と言います。その時にイエスは、旧約聖書に預言されている神の国(メシア的王国)が来るという、御国の福音をユダヤ人達に告げられました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。マルコ1:15

 しかし、多くのユダヤ人達はイエスがメシアであることを拒否し、十字架につけて殺してしまいます。亡くなられたイエスは墓に葬られますが、三日目に復活されます。そして、12使徒達や500人以上のキリスト者に現れた後で、人々の見ている前で天に上げられました。

こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。使徒1:9

 

 イエスが天に昇られた直後には、その姿を見送った人達に白い服を着た天使が現れました。そして、メシアであるイエスがもう一度この地上に戻って来ることを告げたのです。それが、キリスト再臨の予告です。

 

イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」使徒1:10~11

 

 イエスが昇天されたのは、エルサレムの東側にあるオリーブ山でした。その同じオリーブ山にもう一度戻って来られることが、旧約聖書のゼカリヤ書に預言されています。

 

その日、主は御足をもって/エルサレムの東にある/オリーブ山の上に立たれる。ゼカリヤ14:4

千年王国、そして新しい天と地の到来

 この時代にイエスの福音を世界に伝え始めたのは、初臨のイエスをメシアだと信じた少数のユダヤ人クリスチャン(メシアニックジュー )達です。パウロを筆頭とした、彼らメシアニックジューの命がけの働きによって、イエスの福音は世界中の異邦人にも広められることになりました。元をたどれば、私達異邦人クリスチャンは、ユダヤ人のクリスチャンによってイエスの福音に与ることになったのです。

 彼らメシアニックジューがメシア イエスから受けた希望は、人はイエスの十字架を信じることで罪が赦されて救われること、そして、もう一度キリストは来られ、その時に全世界を裁き、今の罪に満ちた地上を終わらせ、イエス キリストが直接統治される千年王国を建てられるという希望です。

 

 千年王国/ユダヤ人達は旧約聖書の預言から、メシアが統治される完全な王国(メシア的王国)が来ることは知っていました。しかし、それが千年間という時間限定であることが、新約聖書の時代になってヨハネの黙示録において明らかになりました。千年王国も、メシア的王国も、同じことを指していますが、千年という「奥義=秘められた計画」は、新約で啓示された新しい情報です。その千年王国においては、信者はキリストと共に世界を統治することになります。

第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。ヨハネの黙示録20:6

 ・・・更にその先には、新しい天と地が天から降って来ることが預言されています。その新しい天と地が、一般的に私達が天国と呼んでいるものです。その前に来る千年王国は、いわばエデンの園の回復と言えます。注意したいのは、エデンの園は相当素晴らしい世界ではあるのですが、しかし、まだ完璧な世界ではないということです。エデンの園は、人がまだ罪を犯す可能性が残された世界であり、サタンが存在できた世界です。しかし、新しい天と地には、罪も、死も、サタンの存在も、もうありません。完璧な神の愛と平和に満ちた世界です。

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」ヨハネの黙示録21:1~4

先延ばしにされた神の御計画

 イエスが初臨された時、もしユダヤ人達がメシアをイエスだと信じたのであれば、旧約聖書に預言されたメシア的王国は直ぐに到来するはずでした。しかし、イスラエルが国家的にメシア イエスを拒否する結果となったため、その神のご計画は一時的にストップされ、将来へ先延ばしにされたのです。そこで、もう一度その神の国到来の約束が再開されるまでに挿入された時間が、今の教会時代です。この時代は、神がイスラエルに与えられた約束のクライマックスの部分がまだ成就されず、その実現を待っている時なのです。いわば、イスラエル時計が一時的に止まっているのが今という時です。

 この教会時代にイエスの福音は世界中に広められ、大勢の異邦人が神によって収穫され、祝福を受けるようになります。皮肉なことに、ユダヤ人達が初臨のメシアを拒否したことによって、神の恵みは私達異邦人へと流れ込んで来たのです。しかし、これもまた神のご計画の一つです。

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では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。

ローマ11:11、12

神の栄光

 神が私達に聖書を通して約束されている希望は、この地上での夢や願いが何でも叶うことではありません。もちろん、イエスを信じた後で人はいろいろな祝福を受けることがありますから(病気が癒される等)、それはそれで大変素晴らしいことではあります。しかし、そのような世の中における希望は、それがどんなに感動的で素晴らしくても、やがては朽ち果ててしまいます。

  それに対し、神が私達に約束されている本当の希望というのは、永遠に朽ち果てないものです。それこそが、将来のキリストの再臨によってもたらされる神の国であり、新しい天と地です。そこで私達は、神の栄光を誉めたたえながら、神が約束された永遠の命に生きるようになるのです。この希望は、神の栄光が輝く将来を見据えた、人間中心の話ではない、神中心の話です。ですから、私達がこの地上での信仰生活を本当に充実して送るには、「私」自身へのこだわりは捨てなければなりません。「私ではなく、神の栄光が輝きますように」となれた時に、その人は本当の希望に満ち溢れた信仰人生を送ることができるようになります。

 

 クリスチャンの詩人で画家の星野富弘さんの詩に、こうあります。 「いのちが一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」

 

 キリスト者にとって、イエス キリストは自分の命よりも大切なお方です。それを本当に信じることができた時に、人はたとえこの地上では様々な苦しみがあっても、将来に希望を持って生き生きと人生を送ることができるようになるのです。イエス キリストの再臨こそが、私達の希望なのです。