教会について

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
だれも父のもとに行くことができない。~イエス・キリストの言葉~

教会へ来られるきっかけは、人それぞれであると思います。ある方は、人生に大きな悩み苦しみを抱えて来られます。

またある方は、教会のイベントに参加してみたり、友人や知人に誘われて来てみたり。

しかし、最も大切なこととして教会が皆さんにお伝えすることは、

「神の子であるイエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さった」ということです。

それを信じることのできる人は、どんな罪も赦され、その人には本当の自由と平和が与えられます。

そして、その人は死んだ後で必ず天国に招かれます。それが聖書に書いてある約束なのです。

 

教会は、皆様のお越しを心からお待ちしております。

信仰基準

聖書

聖書はすべて誤りなき神の御言葉であると信じ従います。

神は、①父なる神、②御子なるイエス、③聖霊、による三位一体の神です。

神との交わりの回復

すべての人はアダムによる罪への堕落以来、霊的に神との交わりを絶たれ、生まれながらにして罪人であり、霊的死の状態にあります。 この神との交わりを回復させることができるお方こそイエス キリストです。​​

救い

「イエス キリストは私の罪のために十字架にかかり死んで下さった。そして墓に葬られた。その後三日目に復活された。」

この福音を信じることが、人が霊的死の状態から救われるために必要なすべてです。信じた人には救いの保証としての聖霊が与えられ、一度与えられた聖霊がその人から去ることはありません。水の洗礼はその聖霊を受けた人が信仰の表現として受けます。

教会

教会は信者が聖霊によって一つとされたキリストの体です。教会には天上の教会(見えない教会)と 、地上の教会(見える教会) があり、 私達が真に所属すべきは天上の教会です。しかし、信者は神の 栄光のために、力を合わせて地上の教会を建て上げます。

神の契約

神がアブラハムを通してイスラエルに与えられた契約内容の一部に、イエス キリストの十字架を通して異邦人である私たちも 与っています。聖書にある契約のすべては、将来イスラエルが国家的に悔い改め、メシアをイエスだと呼ぶことによって、ユダヤ人、異邦人の双方の上に成就します。

終末

教会は七年の大患難時代の前に携挙されます。大患難時代の後、イエス キリストはこの世の裁き主として地上再臨されます。その時に、イエスを信じた者は永遠の命を受け、 信じなかった者は永遠の罰に定められます。そして千年王国が始まります。その千年の後、「新しい天と地」が天から降り、救われた者はそこで永遠に神と過ごす事になります。

私たちの希望

キリストの再臨

 イエス キリストを信じる者にとっての最大の希望とは、キリストの再臨です。今からおよそ2000年前に、イエスはイスラエルの地ベツレヘムにお生まれになられました。そして、30歳からご自分をメシア(救い主)として現す公生涯を始められます。それを、メシアの初臨と言います。その時にイエスは、旧約聖書に預言されている神の国(メシア的王国)が来るという、御国の福音をユダヤ人達に告げられました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。マルコ1:15

 しかし、多くのユダヤ人達はイエスがメシアであることを拒否し、十字架につけて殺してしまいます。亡くなられたイエスは墓に葬られますが、三日目に復活されます。そして、12使徒達や500人以上のキリスト者に現れた後で、人々の見ている前で天に上げられました。

こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。使徒1:9

 

 イエスが天に昇られた直後には、その姿を見送った人達に白い服を着た天使が現れました。そして、メシアであるイエスがもう一度この地上に戻って来ることを告げたのです。それが、キリスト再臨の予告です。

 

イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」使徒1:10~11

 

 イエスが昇天されたのは、エルサレムの東側にあるオリーブ山でした。その同じオリーブ山にもう一度戻って来られることが、旧約聖書のゼカリヤ書に預言されています。

 

その日、主は御足をもって/エルサレムの東にある/オリーブ山の上に立たれる。ゼカリヤ14:4

先延ばしにされた神の御計画

 イエスが初臨された時、もしユダヤ人達がメシアをイエスだと信じたのであれば、旧約聖書に預言されたメシア的王国は直ぐに到来するはずでした。しかし、イスラエルが国家的にメシア イエスを拒否する結果となったため、その神のご計画は一時的にストップされ、将来へ先延ばしにされたのです。そこで、もう一度その神の国到来の約束が再開されるまでに挿入された時間が、今の教会時代です。この時代は、神がイスラエルに与えられた約束のクライマックスの部分がまだ成就されず、その実現を待っている時なのです。いわば、イスラエル時計が一時的に止まっているのが今という時です。

 この教会時代にイエスの福音は世界中に広められ、大勢の異邦人が神によって収穫され、祝福を受けるようになります。皮肉なことに、ユダヤ人達が初臨のメシアを拒否したことによって、神の恵みは私達異邦人へと流れ込んで来たのです。しかし、これもまた神のご計画の一つです。

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では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。

ローマ11:11、12

千年王国、そして新しい天と地の到来

 この時代にイエスの福音を世界に伝え始めたのは、初臨のイエスをメシアだと信じた少数のユダヤ人クリスチャン(メシアニックジュー )達です。パウロを筆頭とした、彼らメシアニックジューの命がけの働きによって、イエスの福音は世界中の異邦人にも広められることになりました。元をたどれば、私達異邦人クリスチャンは、ユダヤ人のクリスチャンによってイエスの福音に与ることになったのです。

 彼らメシアニックジューがメシア イエスから受けた希望は、人はイエスの十字架を信じることで罪が赦されて救われること、そして、もう一度キリストは来られ、その時に全世界を裁き、今の罪に満ちた地上を終わらせ、イエス キリストが直接統治される千年王国を建てられるという希望です。

 

 千年王国/ユダヤ人達は旧約聖書の預言から、メシアが統治される完全な王国(メシア的王国)が来ることは知っていました。しかし、それが千年間という時間限定であることが、新約聖書の時代になってヨハネの黙示録において明らかになりました。千年王国も、メシア的王国も、同じことを指していますが、千年という「奥義=秘められた計画」は、新約で啓示された新しい情報です。その千年王国においては、信者はキリストと共に世界を統治することになります。

第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。ヨハネの黙示録20:6

 ・・・更にその先には、新しい天と地が天から降って来ることが預言されています。その新しい天と地が、一般的に私達が天国と呼んでいるものです。その前に来る千年王国は、いわばエデンの園の回復と言えます。注意したいのは、エデンの園は相当素晴らしい世界ではあるのですが、しかし、まだ完璧な世界ではないということです。エデンの園は、人がまだ罪を犯す可能性が残された世界であり、サタンが存在できた世界です。しかし、新しい天と地には、罪も、死も、サタンの存在も、もうありません。完璧な神の愛と平和に満ちた世界です。

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」ヨハネの黙示録21:1~4

神の栄光

 神が私達に聖書を通して約束されている希望は、この地上での夢や願いが何でも叶うことではありません。もちろん、イエスを信じた後で人はいろいろな祝福を受けることがありますから(病気が癒される等)、それはそれで大変素晴らしいことではあります。しかし、そのような世の中における希望は、それがどんなに感動的で素晴らしくても、やがては朽ち果ててしまいます。

  それに対し、神が私達に約束されている本当の希望というのは、永遠に朽ち果てないものです。それこそが、将来のキリストの再臨によってもたらされる神の国であり、新しい天と地です。そこで私達は、神の栄光を誉めたたえながら、神が約束された永遠の命に生きるようになるのです。この希望は、神の栄光が輝く将来を見据えた、人間中心の話ではない、神中心の話です。ですから、私達がこの地上での信仰生活を本当に充実して送るには、「私」自身へのこだわりは捨てなければなりません。「私ではなく、神の栄光が輝きますように」となれた時に、その人は本当の希望に満ち溢れた信仰人生を送ることができるようになります。

 

 クリスチャンの詩人で画家の星野富弘さんの詩に、こうあります。 「いのちが一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」

 

 キリスト者にとって、イエス キリストは自分の命よりも大切なお方です。それを本当に信じることができた時に、人はたとえこの地上では様々な苦しみがあっても、将来に希望を持って生き生きと人生を送ることができるようになるのです。イエス キリストの再臨こそが、私達の希望なのです。

神様の愛

神様の愛は、ご自分の方から私達のほうへ近づいて来て下さる

ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

ルカ15:18~20

 この聖書の言葉は、放蕩息子のたとえ話です。聖書は、神様と人間の関係を親子関係になぞらえて説明します。ここでもお父さんは神様のことであり、息子は私達人間のことです。

 罪を犯し、放蕩の限りを尽くして戻って来た息子の姿を、お父さんは遠くで見つけました。お父さんが遠くからでも息子を見つけることができたのは、いつも「今、帰って来ないだろうか...」と、来る日も来る日も息子の帰りをずっと外で待っていたからです。

 息子は「こんなにひどい自分は、家に帰ったらお父さんに叱られ、しかも拒否されるかもしれない」という心配をしていたでしょう。それでも帰る所の無い息子は、雇い人の一人という立場でもいいから家に帰りたい思いでした。そんな息子をお父さんは遠くで見つけると、憐れに思い、自分の方から走りよって抱きしめてくれました。息子は驚いたでしょう。しかし、これが神様の愛なのです。

 ・・・罪を犯した時、人は赦してくれないかもしれません。しかし、神様だけは、罪を悔いるあなたを憐れんで、自らが走り寄って来て迎えて下さるのです。

神様の愛は、私達に一番良いものを下さる

息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

ルカ15:21~24

 
ここも、上の放蕩息子のたとえの続きです。 「罪を犯した自分のことを、お父さんはもう息子と呼んでくれないだろう」と、まったく良いことを期待していなかった息子は、思わぬ祝福を受けます。なんと、 汚れて帰ってきた自分に一番良い服が用意され、指輪や履物が与えられました。そして、子牛の料理まで出され宴会が始まります。

 ・・・神様は、罪を犯して悔いるあたなのために、最上のものを用意して待っていて下さいます。神様がそうされる理由は、死んでいたあなたが生き返り、神様の前からいなくなっていたのに見つかったからです。神様は、悔いるあなたを喜んで迎えて下さいます。

神様の愛は、私達のために一番大切なものを犠牲にして下さる

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16

 神様は、ご自分の一番大切な独り子である御子イエスを十字架にかけて死なせ、私達の罪の身代わりの犠牲となさいました。このイエスの犠牲を「自分の罪のためだった」と信じる人は、罪が赦され、永遠の命が与えられるのです。神様が人間に提示されたこの救いの方法は、ある人たちにとっては不思議で不可解に見えるかもしれません。しかし、確かなことは、神様は私達人間が一番わかりやすい形でご自分の愛を示そうとされたということです。

 

 ・・・親にとって、自分の大切な子供を失うことは、自分が死ぬよりも辛いことです。しかし、その犠牲をしてまでも、神様は私達を罪の中から救い出したいのです。それほどに、神様は世にいる私達のことを愛して下さっています。

神様の愛は、時に私達に厳しくされる

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」・・・ 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。ヘブル12:5~・・・10

「神様がいるのであれば、なぜ私はこんな試練に遭わなければならないのだろう・・・」と思われる方もいるでしょう。しかし神様は、肉の(人間の)父親が自分の息子を愛するがゆえに厳しく育てるように、時に私達に対して試練や懲らしめを与えられるのです。それは、試練を通して私達が神様の存在に気がつくようになるためです。

 ・・・ほとんどの人は、人生で何かの試練を受けた経験があるでしょう。しかし、その試練の背後に神様の愛が存在していたことに気が付く人は幸いな人です。なぜなら、その人は試練の後に、神様と出会うことができた喜びに満ち溢れることになるからです。

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