Bible Study

イスラエルと私たち

 アダムの堕落から罪に堕ちた全人類を救済するために、神様はあるご計画をお立てになりました。そのご計画とは、神様がイスラエルに与えられた契約を通して、ユダヤ人と異邦人の両方を救うというご計画です。実は、イスラエルは私たちと無関係な民族ではなく、私たち異邦人と大いに関係がある民族なのです。

 聖書にある契約で、イスラエルに与えられた契約は五つあります。その内の四つがまだ有効な契約で、それは、①アブラハム契約、②土地の契約、③ダビデ契約、④新しい契約です。残りのもう一つの契約はモーセ契約で、それはイエスの初臨によってすでに成就しています。 そして、 まだ有効なイスラエルに与えられた四つの契約の一部に、私たち異邦人は関係しているのです。特に注意したいことは、私たちがイエスを信じることで結ばれる④新しい契約は、イスラエルに与えられた契約であるということです。

アブラハム契約

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」創世記12:1~3

 主なる神様は、イスラエルの先祖であるアブラム(後のアブラハム)に、全世界の人々はアブラハムの子孫によって祝福を受けることを告げられました。それが「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」という意味です。新約の時代に入って、パウロはこのアブラハム契約についてガラテヤ書で次のように話しています。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。ガラテヤ3:8、9

  神様はこの約束を、後にアブラハムの子孫としてお生まれになるイエスにおいて成就されたのです。それについては、以下の聖書箇所から確認ができます。

ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。ガラテヤ3:16

 このように、神様は人間の中でアブラハムを選び出して、そこからイスラエル民族を作り出し、そのイスラエルに祝福の契約を与え、更にその契約の延長線上に約束の子孫イエス キリストを置かれました。そして、将来イエスを信じた異邦人は、イスラエルに与えられた契約の*一部にユダヤ人と一緒に与れるようにされたのです。この契約継承の流れの理解は、神様による人類救済のご計画の全体像を知るためには大変重要な鍵となります。 *一部というのは、イスラエルに与えられた契約の全部に異邦人が与っているわけではないからです。

 神様はアブラハム契約で、イスラエルに様々な祝福の約束をされましたが、それを大きくまとめると三つに分けられます。その三つとは、①土地について ②子孫について ③霊的祝福についてです。このアブラハム契約の三つの内容が、後の、土地の契約、ダビデ契約、新しい契約に展開されて行くことになります。そして、異邦人が与ることになるのは、③霊的祝福の部分です

恵みの福音

 恵みの福音は、イエス キリストの十字架を信じることです。イエスが十字架に架かられて以降の教会時代の人は、この福音を信じることによって救われます。使徒パウロが宣教したのは、この恵みの福音です。

しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。使徒20:24

兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、・・・1コリント15:1~5

土地の契約

これから述べるのは、主が、ホレブで彼らと結ばれた契約とは別にモアブの地でモーセに命じられてイスラエルの人々と結ばせた契約の言葉である・・・あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。・・・申命記28:69、30:5~10

 土地の契約は、アブラハム契約の中の、特に土地についての祝福を展開しています。その内容は、将来イスラエルは、神様が与えると約束された範囲の土地全部(エジプトの川から大河ユーフラテスまで/創世記15:18)を獲得するというものです。現在、その約束はまだ成就されておらず、イスラエルはパレスチナ問題の中にいます。この約束は、将来のメシア的王国(千年王国)において、地上で成就することになります。

ダビデ契約

わたしはあなたに告げる。主が、あなたのために家を建てる。あなたが生涯を終え、先祖のもとに行くとき、あなたの子孫、あなたの子の一人に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしのために家を建て、わたしは彼の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。わたしはあなたに先立つ者から取り去ったように、彼から慈しみを取り去りはしない。わたしは彼をとこしえにわたしの家とわたしの王国の中に立てる。彼の王座はとこしえに堅く据えられる。」ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに告げた。Ⅰ歴代誌17:10b~15

 ダビデ契約は、アブラハム契約の中の、特に子孫についての祝福を展開しています。その内容は、メシアはアブラハムの子孫で、ダビデの家系から出るというものです。そのメシアこそ、イエスです。このイエスは、将来の再臨の時にはイスラエルの王の座、ダビデの王座に着かれ、メシア的王国(千年王国)を統治されることになります。

新しい契約

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。エレミヤ31:31~34

 
このエレミヤが預言した新しい契約は、アブラハム契約の中の霊的祝福について展開しています。繰り返しますが、この新しい契約はイスラエルに与えられた契約であるということです。このイスラエルに対する新しい契約の成就は、将来のキリスト再臨によって建てられるメシア的王国(千年王国)において成就されます。そして、この新しい契約に、私たち異邦人もイエスを通して与ることになるのです。

イエスによる新しい契約への言及

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。ルカ22:20

 イエスは、私達が正餐式で飲むぶどう酒の杯を、新しい契約のしるしとして与えられました。聖霊によって将来の救いの保証を与えられた信者は、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、この新しい契約によって、将来のキリスト再臨によって建てられるメシア的王国(千年王国)に招かれることになるのです。

まとめ

この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や"霊"によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。 すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものを*わたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。エフェソ3:5、6
*わたしたちと一緒に=ユダヤ人と一緒に

 私たち異邦人は、神様がイスラエルに与えられた契約の一部に与っています。そして、将来のキリストの再臨によって、その契約内容はすべて成就されることになります。

メシアニックジュー

 メシアニックジューとは、ユダヤ人でイエスをメシア(救い主)と信じている人達のことです。「じゃあ、ユダヤ人クリスチャンのことじゃないか」と、私たち異邦人クリスチャンは考えがちですが、実はそう簡単な話ではありません。メシアニックジューの人達は自分達のことを「クリスチャン」とは言わないのです。また、彼らは自分達の信仰思想を「キリスト教」とは呼ばないで、「メシアニックジュダイズム」と呼んでいます。なぜそうなのかということを、以下で簡単に解説します。

異邦人クリスチャンから迫害を受けたユダヤ人

 ユダヤ人は、2000年の教会史の中で異邦人クリスチャンに迫害され続けた歴史を持っています。彼らは、異邦人クリスチャンに剣を突きつけられてキリスト教への強制的改宗を迫られてきました。11世紀から始まった十字軍では、大量のユダヤ人が異邦人クリスチャンに虐殺されるという悲劇が起こりました。その殺し方は、ユダヤ人をシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)に集めて焼き殺すという酷い方法です。 多くの人が持っている十字軍の認識は、「クリスチャンが、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するための戦い」というものです。しかし、その戦争の中ではユダヤ人虐殺も同時に起きていたのが史実です。この悲劇の根は、異邦人教会の中に反ユダヤ主義があったことによります。「ユダヤ人は、メシアであるイエスを殺した悪い奴ら」という認識でユダヤ人全体を捉えていたのが、当時の異邦人クリスチャンの認識です。

 

 このような歴史背景から、異邦人クリスチャンとメシアニックジューの間には大きな壁ができてしまいます。新約聖書エフェソ2章14節にあるのは、イエスの十字架によってユダヤ人と異邦人の間にあった「壁(モーセ律法)」はすでに取り壊されたということです。しかし、異邦人教会は別の意味での「新たな壁」を作ってしまったのです。

 同じメシアを信じていても、 ユダヤ人達はクリスチャン(特に伝統的な)という人達には抵抗感があり、拒絶反応を示します。それで、自分たちのことは異邦人クリスチャンが使っている信者の呼び名「クリスチャン」は使わないで、メシアニックジューと呼んでいるのです。”クリスチャン” のことは嫌いなのです。ただし、すべてのクリスチャンを拒否しているわけではなく、反ユダヤ主義的なクリスチャンを拒否しているのであり、ユダヤ人に友好的なクリスチャンがいることを彼らは認識しています。

 補足ですが、メシアニックジューは自分達の集まりのことはコングリゲーションと呼びます。異邦人クリスチャンが使う、チャーチ(教会)という呼び名は使いません。また、信者のことはビリーバーと呼びます。ですから、異邦人クリスチャンのことは、異邦人ビリーバーと呼びます。

 こういったユダヤ人の拒絶反応はみな、彼らが異邦人クリスチャンから受けた迫害の歴史から出ているものです。それにも増して付け加えるべきことは、何よりもイエシュア(メシアニックジューは、イエスをそう呼びます)は、ユダヤ的文脈の中から出てきたメシアであり、異邦人クリスチャンの側の様々な文化に、彼らがおもねる必要はないわけです。

イエスはユダヤ教の文脈から出てきたメシア

 メシアニックジューは、自分たちの信仰思想を「クリスチャニティ=キリスト教」とは呼ばないで、「メシアニックジュダイズム」と呼んでいます。 ジュダイズムというのは、メシア イエスの登場はユダヤ的文脈の中から出て来ているということです。それはその通りで、キリスト教とは、そもそもユダヤ教の延長線上にあるものです。旧約聖書と新約聖書は分けて考えるべきではなく、繋がった一冊の本であり、それらを繋いでいるのは神様がイスラエルに与えられた契約です。私達が忘れてはならないのは、異邦人は神様がイスラエルに与えられた祝福の契約の一部に与っているということです。

交わりの回復、そして完成へ

 使徒言行録にある初代教会はユダヤ人から始まりました。最初の異邦人キリスト者はみな、ユダヤ人でイエスを信じたメシアニックジューに、ユダヤ的文脈から聖書を教えてもらったのです。それが教会のスタートです。使徒言行録15章のエルサレム会議では、「異邦人クリスチャンにも割礼を受けさせ、モーセ律法を守らせるべきか?」というテーマでユダヤ人キリスト者による話し合いが持たれました。つまり、「異邦人はユダヤ人キリスト者のようにならなければいけないかどうか」について話し合われたわけです。結論は、異邦人はそうする必要はないということです。

 そのように、初めはユダヤ人が教会の方向性を決め、異邦人はユダヤ人から聖書の世界観を教えてもらっていました。しかし、その後次第に異邦人キリスト者の数が増えると、彼らはユダヤ人キリスト者を圧倒して行きます。すると今度は「ユダヤ人はユダヤ人を止めてクリスチャンにならないといけない」という話になって行き、異邦人が教会の方向性を決めるようになります。その辺りから、残念なことに聖書解釈はユダヤ人信者の存在意義(レムナントの存在意義)や、ユダヤ性を無視した方向へと進んでしまいます。・・・注意して頂きたいことは、こういう話は「ユダヤ人が教会のリーダーであるべきだ」ということではありません。そうではなく、神様による人類救済のご計画はイスラエルを通して成就されるということが聖書に預言されているのですから、それを私達の方で勝手に無視してはいけないということです。

 しかし、現在、今までの異邦人教会の態度を悔改めるクリスチャンが世界中で起こされています。そして、聖書をユダヤ的視点から解釈し、ユダヤ人の救いについても「ユダヤ人はユダヤ人のままでイエスを信じて救われる」ということになってきています。その結果、メシアニックジューの側との交わりも一部回復されてきています。この状況は、元々あった初代教会のユダヤ人と異邦人の信者の交わりの姿が、再び回復されつつあるということです。それが今という時代に起きていることです。そして、その教会の姿こそが本来の教会の姿であり、この両者は将来の千年王国において、キリストを頭とした「一人の新しい人」となって完成されるのです。ですから、今起きているユダヤ人と異邦人の信者の交わりの回復は、将来起こることの「前味わい」だと言えるのです。

実に、キリストはわたしたちの平和であります。*二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。エフェソ2:14

 

*二つのもの=ユダヤ人と異邦人の信者

ディスペンセーションと契約の関係

<ディスペンセーション(経綸、時代区分のこと)>

時代を追うごとに見えてきた神様のご計画

  神様が私達人間に人類救済のご計画を啓示された時、最初からそのすべてを見せられたのではありません。そうではなく、時代を追うごとにだんだんと全貌を見せて来て下さったのです。その明らかにされて行く過程の時代ごとの区分を「ディスペンセーション 」と言います。 イエス様は聖書の中で「明けの明星」と表現されていますが、この明けの明星とは、明け方にだんだん明るくなる時に見えてくる金星のことです。そのように、神様の人類救済のご計画はだんだん明らかにされてきたのです。

  各ディスペンセーションには、神様がその時代ごとに与えられた契約が深く関与しています。その時代ごとの契約に従い、人間には、自分を含めた世界を管理する責任が与えられました。しかし、人の側がことごとくその責任を放棄して契約を破るので、神様は次なる救いの一手として、新たな時代と契約を人間に与えられたのです。

  大局に立って眺めると、神様は世界を一つの家(オイコス)に見立て、各時代ごとに契約としての法律(ノモス)を与えられ、神様を信じる人に世界を管理(オイコノミア)させようとしたと見ることができます。それは、神様の栄光が輝く最後の日まで続きます。

ディスペンセーションの考え方の重要性

 ところで、なぜこのディスペンセーションの考え方が重要であるかですが、それは聖書を読む時に 「読んでいる箇所がどの時代区分か」 ということを理解していないと、信者が御言葉を自分に適用させる際に混乱を引き起こしてしまうからです。 例えば、 今の時代の信者は「恵みの時代」に生きる者に対して書かれた部分だけを適用するべきであって、他のディスペンセーションの人々に対して書かれた部分は、霊的教訓や原則を学ぶことはできても、それを直接適用するべきではありません。

  ですから、旧約聖書のモーセ律法の部分などは、今の時代の私たちには適用されないのです。 この区分けがはっきりしていないと、” 安息日遵守 ” や、” 豚肉を食べてはいけない ” 等のモーセ律法について、ある人達は「今の私達にもあてはまるのではないか?」と考えてしまいます。ところが、そのように考える人の多くは、ある程度モーセ律法を自分に適用させようとしながらも、” いけにえを捧げる ” というようなモーセ律法の規定は行っていません。モーセ律法は、一つを守るのであれば全部を守らなければいけない性格のものです。それにもかかわらず、そのような矛盾が多くの教会やクリスチャン個人において起こっているのは、ディスペンセーションと契約の適用についてあいまいになっているからです。

  更に、これもまた重要な理解ですが、新約聖書の福音書でイエス様が生きておられた時代は、ディスペンセーションで言えば「恵みの時代」ではなく、「律法の時代」だということです。イエス様は公生涯において「律法の時代」を過ごされ、その時代に守るべきモーセ律法に忠実に生きられました。(*よくファリサイ派がイエス様に向かって「律法を守っていない」と攻撃したのは、口伝律法のことであって、モーセ律法のことではありません)ですから注意すべきは、イエス様が十字架で死なれる前までに言われたことは、「律法の時代」における教えが含まれており、すべてが今の「恵みの時代」の信者にも当てはまるというのは間違った聖書解釈だということです。今の時代の信者は、主に使徒言行録以降の信者の生活スタイルに従うべきです。また、バプテスマのヨハネやイエス様が「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ3:2、4:17)と言われたのは、「御国の福音」であって、イエス様の十字架以降の「恵みの福音」とは区別されることも注意しなければなりません。  *「御国の福音」と「恵みの福音」の違いとは

<ディスペンセーション主義の特徴>
1.聖書を比ゆ的にではなく字義通りに読む
2.イスラエルと教会を完全に区別する
3.「神の栄光が輝くこと」が最大テーマ

聖書にある八つの契約について

◆ 契約の種類~神様が与えられた契約方法は二種類ある~

1.条件付契約 (エデン契約、モーセ契約)  
  *人間の側が神様の約束を守ったら成就される契約

  この契約は、人間の側が神様の提示された条件を守ったら祝福が与えられるという約束です。その反対に、人間が神様の提示条件に従わなかった場合は、呪いと裁きがその人に下ります。

2.無条件契約 (アダム契約、ノア契約、アブラハム契約、 土地の契約、ダビデ契約、新しい契約) 
  *人間の側が神様の約束を守れなくても、神様が一方的に成就される契約

  この契約は、人間の側が神様の提示された条件を守れなくても祝福が与えられるという約束です。かつて、アブラハムやダビ デが信仰上の大失敗をしたにもかかわらず祝福が取り去られなかったのは、この神様による無条件契約のため です。そして今のクリスチャンも、新しい契約という無条件契約によって祝福を約束されています。クリスチ ャンであっても信仰上の失敗をしてしまうのですが、しかし、それでも救いの約束は取り消されることは無いのです。私たち は、この一方的な恵みへの感謝から、神様の言われることに喜んで従い、働こうとする者たちなのです。決して、「救いが奪われる 」という間違った教えの恐怖から神様のために働く者ではありません。救いの約束は奪われないのです。

◆ 契約の対象~神様が与えられた契約の対象はイスラエルに対してと全人類に対しての二種類がある~

1.全人類に対しての契約( エデン契約、アダム契約、ノア契約)

2.イスラエルに対しての契約( アブラハム契約、モーセ契約、土地の契約、ダビデ契約、新しい契約)

1.のエデン契約は、全人類代表のアダムが神様との契約(園の中央の木の実を食べてはいけない)を 破って、終了しました。アダム契約、ノア契約は、現在も続いています。

2.のモーセ契約は、イエス様の初臨によって成就(マタイ5:17)されました。アブラハム契約、土地の契約、ダビデ契約、新しい契約は、現在も続いています。

御国の福音と恵みの福音

御国の福音

 御国の福音は、バプテスマのヨハネやイエス キリストが、旧約で預言されていたメシア的王国が来ることをイスラエルに向かって告げ知らせ、その王国を来たらせるメシアがイエスであることを信じるようにと言われた福音です。この福音が告げ知らされた時、もしイスラエルがイエスをメシアだと信じたのであれば、メシア的王国は直ちに到来するはずでした。しかし 、イスラエルはイエスを拒否して十字架に架けたので、その到来は将来に先延ばしにされたのです。 そして、その将来のメシア的王国到来の時までの間に挿入されたのが教会時代です。その教会時代の人達に告げ知らされているのが恵みの福音です。

  御国の福音は、イエスの十字架を信じることではありません。なぜなら、その福音が宣べ伝えられた時代に、イエスはまだ十字架に架かっておられないからです。御国の福音は、旧約で預言されたメシア的王国の到来が、メシアであるイエスによってもたらされることを信じることです。

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。マタイ3:1,2

イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。マタイ4:23

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